1989年(神話時代)
3人以上参加者がいれば試合と認められたため、試合をすればするほど
優勝に有利になる制度であった。
1着のみにポイント付加 計算式:(人数+6)
後期からは公開試合(日時場所指定の試合)を設けることになった。
第1期のシーズン成績(抜粋)
 選手名  ゲーム 優P計 上位 上位率 合計点 平均点 ST ST平均 SP ミス スペア率
松本誠司 43   54   31 72.1%  6031  140.3  93 2.16  141 165 46.1% 
島和男.com 34   50   17 50.0%  4542  133.6  67 1.97  105 159 39.8% 
ジョー・タカミ 43   30   14 32.6%  5175  120.3  71 1.65  113 224 33.5% 
高田和夫 18   17   10 55.6%  2233  124.1  26 1.44  53 90 37.1% 
松本昌士 11   13   8 72.7%  1468  133.5  18 1.64  38 47 44.7% 
合計平均 253 182 119 47.0% 31371 124.0 422 1.67 706 1268 35.8%
第2期のシーズン成績(抜粋)
 選手名  ゲーム 優P計 上位 上位率 合計点 平均点 ST ST平均 SP ミス スペア率
松本昌士 12   40   7 58.3%  1672  139.3  33 2.75  35 48 42.2% 
島和男.com 33   37   26 78.8%  4741  143.7  79 2.39  111 133 45.5% 
松本誠司 33   25   24 72.7%  4476  135.6  53 1.61  116 124 48.3% 
稲瀬 武 15   16   9 60.0%  1934  128.9  27 1.80  46 75 38.0% 
高田和夫 23   14   11 47.8%  2830  123.0  29 1.26  70 120 36.8% 
合計平均 292 144 139 47.6% 35682 122.2 466 1.60 789 1505 34.4%
第1回千里シリーズ
前期
松本誠司
○105
○180
○171
●153
○164
104●
156●
156●
176○
148●
後期
松本昌士

 昭和から平成にかわったこの年、奇しくもWBFが産声をあげた年となった。記録を見ると、やたらと試合数が多い。特に前期は松本誠司選手と高見選手がダントツのゲーム数43を記録している。これは当時の「日程は特に定めず、とにかく3人集まったらゲーム成立」という、今から考えるとハチャメチャなルールによるもの。さすがに後期はちゃんと日程を組むようになったが。今から思うとこの1年目は、まだほとんどの選手がマイボールはおろかシューズすら持っていない、実に牧歌的な雰囲気であった。
 さて、豚串、もとい私事で恐縮だが、筆者がボウリングに真面目に?取組むようになったのは、このWBF開催がきっかけである。それまでは100点前後で一喜一憂していたのが、この年の後期には、僅か1ゲームのことだが161点を記録。そのときの喜びは、今も忘れていない。                              (馬場 毅)
1期‥‥昭和天皇が崩御した1989年初頭…テレビ番組も追悼関係ばかりになり、「暇やなあ!集まってボウリングでもするか!」とセルシーボウルに集結したことがWBFの第1歩でしたね。3人集まれば公式戦と認定という今では考えられないアバウトなルールで運営された第1期は惜しくも松本誠司君に惜しくも4ポイント差で2位に終わったのは残念でしたね。あの頃は150点取ったらかなり嬉しかったです。
2期‥‥当時、松本誠司君と組んでセルシーボウルのアマチュアリーグに参加しておりました。そのリーグ戦の1戦がWBF公式戦と兼ねるという試合があって、この時私はストライクを連発して240点という当時としては未曾有の記録を叩き出しました。にもかかわらずシーズン優勝は松本昌士君に譲って2位だったのは残念なことでしたね。結局この89年シーズンは前後期とも2位に終わったわけですが、実を申せば勝利ポイントを前後期通算すると誠司君も昌士君も上回って、この私が1位だったのじゃ!もう15年も前のことですが、このことは今でも恨みに思ってます(笑)     【島和男.com】



   1990年へ 

 記録のコーナーに もどる 

 トップページに戻る


wbf